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明治~昭和初期の意外なハンバーグ文化

あら!お おいしいじゃない この料理

 

1882年(明治15年)、日本初の料理学校「赤堀割烹教場」の開校披露の席上にて
ハンバーグが披露されました。ハンバーグと言う名称と調理法が合致するのは
日本ではこれがはじめてでした。

しかし、庶民にとってはまだまだ未知の料理であり、高嶺の花でありました。
ここから日本におけるハンバーグ文化の定着に大きく関わっていたのが「軍隊」です。
日本では明治時代に軍隊を創設して以降、フランス人やドイツ人の士官やコックを
招聘していました。そして、日本に残ったフランス人やドイツ人のコックが西洋料理店を開き、
兵役を終えた兵隊が洋食の味を広めることで洋食文化が各地に広がっていったのです。
これによりハンバーグは、明治30年代には都内の西洋料理店のメニューに登場し始めます。

 

1937年(昭和12年)には、陸軍省検閲済の「軍隊調理法」に
「挽き肉油焼(ハンバーグステーキ)」が登場しています。
これは、大日本帝国陸軍が発行した料理の基礎と献立がまとめられた
今でいうところのレシピ集にあたります。
掲載されたレシピを通じて、肉じゃがやカレーなどと同様に
ハンバーグも全国の家庭に普及していったのです。

 

ちなみに、戦前の銀座ではハンバーグが朝食メニューとして人気だったそうです。
国文学者・池田彌三郎による『私の食物誌』には下記の記述があります。


“「戦災以前、銀座西5丁目の“富士アイス”でたべさせた朝食のハンバーグ・ステーキは今でも忘れられない。それは、ただハンバーグそのものだけで、何のソースもかかっていず、そえものの野菜もジャガイモをうすく小形に切っていためたものだけであった。しかもその量は、朝だからという遠慮などしていない堂々たる一人前の分量であった、富士アイスではそれを11時までだして、11時すぎると今度はソースのかかった、野菜もごっそりとそえてある、お料理お料理したものに変えた。わたしはその朝食のハンバーグを勝手に、プレーン・ハンバーグと呼んで、昼すぎも特にそれを注文した」”

 

何ともハイカラで優雅な朝食ですね。時代の先端を行く銀座ならではのエピソードです。
「朝ラー」ならぬ「朝ハン」文化、現在に復活しても面白いかも知れません。

 

また、ハンバーグには昭和初期までは「メンチボール」や「メンチボー」という呼び名もありました。

夏目漱石が書いた1905年の『吾輩は猫である』にも「メンチボー」は登場しています。

 

執筆:バーグマン田形

無断転載禁止。取材・お問い合わせは日本ハンバーグ協会までお願いいたします。